文化庁Living History「鳥羽伏見の戦い絵巻 超高精細デジタル化及び歴史発見コンテンツ製作 」レポート[2]
2020年09月30日
2020年9月24日木曜日、京都大学吉田キャンパスにある時計台記念ホールにて文化庁の令和2年度Living History事業に関わるキックオフミーティング「鳥羽伏見の戦い絵巻 超高精細デジタル化及び歴史発見コンテンツ製作」が開催されました。
前編に引き続き、後編は霊山歴史館の副館長でいらっしゃる木村幸比古(きむらさちひこ)様の講演の様子から
タイトルは「戊辰戦記に見る一考察」
幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」はパナソニック創業者である松下幸之助を中心に1970年に設立された京都東山にある幕末・明治維新専門の歴史博物館
木村先生は幕末維新史研究の第一人者でいらっしゃり、近世思想史、幕末史、維新史の研究と博物館活動での功績が認められ、文部大臣表彰、京都市教育功労者表彰を受けておられます
NHKの大河ドラマ「徳川慶喜」「新選組!」「龍馬伝」「花燃ゆ」「西郷どん」の企画展示にもたずさわってこられました
また居合道においては、範士八段をお持ちの剣の達人でいらっしゃいます
霊山歴史館には仁和寺が所蔵するものと同じ絵巻のほか、ドイツ人のエーマンによって彩色されて刊行された「錦の御旗」があり、両方を所蔵
今回はカラーの方で解説をして頂けるということです
まずは絵巻の巻頭を飾る「戊辰正月元日」から
1868年が戊辰の年であることから「戊辰戦争」と呼ばれること
旅人が門の前でひれ伏して拝んでいる京都の庶民の姿や
五摂家の一人がお供を連れて天皇の所に挨拶に伺う様子などが描かれていることなどを説明
そして戊辰戦争とはかけ離れたお正月の様子から絵巻が始まる点については
市中では戦いは別にないですよという安心安全なイメージを市民に与えたかったのではないかと推測されていました
この中で不思議なことに刀は差しているが鉄砲を持っている人物が誰もおらず
これは伏見の市民にこれから戦いがはじまるぞという威圧感を与えるよりも
我々は伏見の町を治安のためにやってきたという慶喜の考え方を示しに来たと推測されていました
その他にも今回のデジタル化で気づいた点として、犬が描かれているのを発見したことについてもお話されていたのが印象的です
それから今度は新政府軍の服装についての考察もあり
幕末に徳川幕府が行った軍制改革を全藩が共有して、薩長はその上に自分たちの様式を重ねた
つまり今まで言われるように幕府方が旧式の武器で戦って負けたのではなくて
幕府も最新式の兵制を整えていたこと
そして幕府のやった調練を受けて、薩長は独自に自分の藩で改革を進めた
この点で両者に差が出たのではというご指摘でした
東軍戦死者の場面については
絵巻の中では「賊軍」という表現がない点について
明治天皇に仕えた山岡鉄舟が幕府側であったりと、勝った方も負けた方も新政府に仕えていることもあり
絵巻が作成された明治20年ぐらい頃からは官軍賊軍ではなく東軍西軍と表記されるようになったためと指摘されていました
また庶民が兵士たちを接待している場面では
酒が伏見の酒ではなく灘の酒で、これは伏見が女酒である一方で灘の酒は男酒で辛口であり、伏見の酒は宴会では使うが戦いでは使わなかったことや
スルメは「寿留女」と表記されるように縁起が良く、また硬くて腐らないことから全員が食べていることや
若い人が戦地へ行くと危ないのでなるべく年配の女性に運搬をさせた点などの興味深い考察がありました
続いては城南宮の宮司である鳥羽重宏(じょうなんぐうぐうじ とばしげひろ)様にご講演をお願いいたしました
城南宮は京都の南に位置しており、まさに戊辰戦争において、新政府軍の掲げる錦の御旗の前に旧幕府軍が総崩れとなった慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの主戦場となった場所で
また、京都では有名な引越・工事・家相の心配事を取り除く「方除(ほうよけ)の大社」と仰がれています。家庭円満や厄除や安全祈願、また車のお祓いに全国からお見えになる神社としても知られています
そして鳥羽宮司は京都大学文学部卒業ののち神職のの資格を取り、城南宮の宮司をお勤めされています
タイトルは「鳥羽伏見の戦い・錦の御旗を描く」です
まずは城南宮様から提供いただいた資料についての説明があり
裏表両面に印刷された資料
薩摩藩が鳥羽伏見の戦いに勝てたのは神様のご加護のおかげであるといって凱旋の時に参拝をした城南宮のパンフレット
また鳥羽伏見の戦いの錦の御旗などを絵に用いた「洛南探訪マップ」は
これから季節も良くなるので、パンフレットを手に鳥羽伏見の戦いのゆかりの地をめぐって頂ければということで提供頂きました
まずは鳥羽伏見の略地図から
城南宮の西の参道が戦いの舞台となり、これより南の下鳥羽や伏見が戦禍に見舞われたことを説明
戦いが終わってすぐに出た瓦版によると城南宮のすぐ近くにある「おせきもち」という和菓子店から南が焼けたと記されているといいます
また現在のおせきもちのご主人は小さい頃にお婆さんから鳥羽街道を南へ進んでいく錦の御旗を見たという話を語って聞かされた方だそうです
それから鳥羽での戦いが起こった経緯であるとか地理的な説明を詳しく
東寺の西側にあった四塚から3キロほど鳥羽街道を南に下がると、東に小枝橋が架かり、それを渡ると城南宮の参道につながっていく
また南へ下がると下鳥羽・淀・八幡方面へと続いていくが、現在は国道1号線がその間を南北に通っているということを丁寧に説明
鳥羽宮司が生まれた頃はまだ一帯は一面田んぼで、秋になると黄金色の稲穂の中に城南宮の緑の森が浮かんでいるという景色で
慶応4年1月3日にその城南宮の西参道に大砲が4門並べられ、森の陰や溝などに薩摩の軍勢およそ530名が大砲や小銃を構えて、南の方から鳥羽街道を北進してきた旧幕府軍約2千を迎え撃ちました
次は上下2枚の写真
上は戦い当時のたたずまいを伝える城南宮の本殿前にある朱の鳥居
下の写真は現在も残っている、鳥羽宮司の4代前の祖先が寝起きをしていたという社務所の入口からつながる母屋で、絵巻にもその瓦屋根が登場しています
そして戦いの当時、数え年で11歳だったという先祖の25代・鳥羽重晴氏が、1916年(大正5年)に全国的に行われたという鳥羽伏見の戦いについての聞き取りの際に話したという東京大学の史料編纂所に残っている資料について詳しく説明下さいました
3日、昼食の用意をしていると薩摩藩士が現れて、これから休憩するから座敷を貸してくれと頼んだことや
城南宮の参道から大砲が撃ち放たれ、繁みの陰にいた薩摩兵士が狙撃をしたことや
翌朝、焼けた赤池の民家の方に行ってみると、幕府の兵の死体が転がっていたというような生々しい出来事も記されているといいます
続いて「戊辰戦争絵巻」について
仁和寺が所蔵している絵巻は1889年(明治22年)明治天皇に献上され、1891年(明治24年)に頒布されたもので
多言語プロジェクトを先走るかのように1907年(明治40年)にドイツ語訳の「錦之御旗」が刊行されましたが、
これは絵巻を長さ50%のサイズで縮小して、彩色したもので、海外の人にも明治維新の偉業を知らしめたいという思いで出版されたとのこと
続いて39場面のうち、最初の御所の場面から、会津藩伏見上陸と解説され
いよいよ「鳥羽の戦い」が始まる「鳥羽関門応接」の場面へ
野津七左衛門が率いる第五番隊が城南宮参道に構え
六番隊が繁みの中に隠れ南からやってくる幕府軍を側面から射撃しようという態勢で狙っている様子や
参道では大砲が8門並んでいるが、一番砲隊の半分の4門は伏見の方に出ているので、実際は鳥羽には半分の4門置かれたと思われ、絵巻では誇張されて描かれていると分かり易く解説が進みます
そして参謀役の椎原小弥太が進みでて徳川方の大目付・滝川播磨守が将軍様の命令であるから都へ通せ、いや帝からはそのようなお許しは聞いてないから通せないと「押し問答」を繰り広げる話から
続く「鳥羽関門戦争」の場面では
日が暮れ出すともう待ってはいられないということで徳川の軍勢が北に向いて進もうとした所
城南宮参道の4門の大砲が火を噴いて戦いが始まったこと
そしてこの大砲によって赤池の民家が焼けてしまったほか
滝川播磨守の馬がその音に驚いて味方の軍勢が並んでいる中を大慌てで南へと狂奔して走り去ってしまう様子や
小銃がどしどし撃たれ白煙がもうもうと上がっている様子についても解説して下さいました
そして東の方から長州の田村甚之助の一行が援軍として駆けつけている点については、絵巻の作成に関わった林半七(友幸)が長州の人間であるため、少し長州びいきで描かれているのではというのは鋭いご指摘です
続いて「伏見戦争」についても解説
御香宮に薩摩が陣を構え、旧幕府軍は伏見の奉行所に立て籠もりますが、
奉行所の方が少し低い所にあったため高い位置にあった御香宮から放った砲弾を浴びせられ、奉行所に着弾し炎上する様子のほか、
林友幸の後年語った話などについてもご紹介くださいました
更に大砲を撃っているシーンの解説や円錐形の「鉢振(はっぷり)」という笠についての説明を頂いた後、
明治時代の末に城南宮の方で薩摩の関係者から寄贈いただいたものだという旗についての説明
京都国立博物館の話によると、遊撃隊の薩摩の丸十字に旗竿がそのままついているのは、非常に珍しいそうです
そして二番砲隊隊長・大山巌の後日談として、君が代の誕生秘話についても説明くださいました
城南宮参道に詰めていた元五番隊小隊長の野津志津夫と大山の二人が相談して薩摩琵琶にある「君が代」が歌詞として提案されたのだそうです
その椎原小弥太の奮戦記についても説明があり、
当時の薩摩軍の布陣の様子が詳しく描かれているそうです
よく小説などで小枝橋を挟んで両者が大砲を撃ち合ったとあるそうですが
奮戦記を見ればそうではないということが分かるとのこと
それから「西郷吉之助伏見戦場巡視」については
西郷隆盛が戦いの当時どこにいたのかについての説明や
林友幸が絵巻の企画者の一人であるので、絵巻の中で私は西郷隆盛と対等に話しているんだぞとさりげなく後ろ姿でPRしている点などの解説がありました
そして
鳥羽の戦いの略図
征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王と錦の御旗が描かれているシーンについても解説があり
「林半七(友幸)大坂進軍を献言す」では、やはり絵巻を企画立案した人物である林半七と御旗奉行の五條少納言が、さりげなく大きく描かれている点を指摘されているのが興味深いご指摘でした
更に「大将軍大阪城焼址御覧」
錦絵で造られた「鳥羽伏見の戦い図」「山崎大合戦図」について説明された後、
城南宮が所蔵されている「錦之御旗巡行図」についても解説頂きました
小松が生えている山の所に3羽の鶴が飛んでいるというおめでたい錦絵で
錦の御旗の巡行の様子を見ることができなかった足弱の老人はこの絵を貼って拝むと御利益があり
逆に粗末にすると神罰が当たるであろうという、そういう触れ込みで出された錦絵なのだそうです
そして続いては錦の御旗の起源についても城南宮が関係があるというお話
城南宮にて後鳥羽上皇が城南流鏑馬の武者揃えと称して北条義時を追討した際に腕に覚えのある西国の武将1500名を集めたが、その主だった武将10名に赤地錦の旗を賜ったのが「錦の御旗」のはじまりといわれているそうです
来年2021年は後鳥羽上皇の承久の乱からちょうど800年のメモリアルイヤーであり
鎌倉18万の軍勢の前に敗れた上皇は沖ノ島に流され、武士の世の中が定まった訳ですが、
それから647年の後の「鳥羽の戦い」の際に再び鳥羽街道を錦の御旗が進み、武士の世の中が終わって、新しい天皇を中心とした世の中に変わったというのは、何か運命めいたものを感じます
次は京都市が数年前から京都の歴史が層をなす豊かな歴史を少しでも地元の人にあるいは訪れた人に知ってもらいたいと積極的に駒札を立てる事業を進めてきて、洛南マップにも駒札の位置などが載っているそうですが、
城南宮でも6年ほど前から城南の地の歴史を絵で残そうというプロジェクトを始めているということで、それについて少し説明を頂きました。
「明治天皇城南宮発輦図」はその後ろから2番目の場面だそうです
鳥羽伏見の戦いの後、慶応4年の3月に明治天皇が大坂に向かわれるのですが、その際に天照皇大神と書かれた錦の御旗を押し立てて御所を出発され、城南宮の拝殿で昼ごはんを召し上がり、再び八幡の方に向かってお出ましになったシーンを長野県諏訪市在住の画家に描いてもらったものだとか
そして最後に現在の自分たちだけではなく400年後の人々、さらには800年後の未来に残る映像文化財がこのプロジェクトで生まれることを期待し、及ばずながらお手伝いさせて頂ければという事で講演は締めくくられました
鳥羽伏見の戦いについての分かり易い説明のみならず、鳥羽宮司の洛南の地や鳥羽の地に対する並々ならぬ思い入れの感じられる、素晴らしい講演でした
旭堂南春様は世界でただ一人の米国生まれの講談師で、
アメリカ合衆国ジョージア州出身
ブーツを履いていた坂本龍馬の写真を見、興味を持ち、来日し、
2013年10月四代目旭堂南陵に入門
2017年12月永住権を取得
2018年1月より、講談中心の生活に入り
「一滴の向こう側」、「ワタシが日本に住む理由」、「世界の村のどエライさん」、「みんなの2020バンバンジャパーン」、「痛快!明石家電視台」などに出演されています
2020年 南春の英語講談教室を開き、「国際物語寄席のアフターショー」「レッツゴートゥープロジェクト」をユーチューブで配信
高知県が開催する坂本龍馬検定中級に合格。日本史の勉強に取り組み、特に幕末に興味を持つ。無双直伝英信流居合術参段
日本国籍の取得と、講談で幕末の歴史を広めることを目指しておられます
本日は、鳥羽伏見の戦いの引き金となった「小御所会議」についての講談を英語で行って頂くことになっており、
講談での登場人物は4人(公家の岩倉具視、前土佐藩主 山内容堂、前越前藩主 松平春嶽、そして西郷隆盛)
慶応3年10月14日、鳥羽伏見の戦い勃発の数か月前、二条城二の丸御殿で大政奉還が行われ、第15代将軍、徳川慶喜が、長らく続いた徳川幕府の政権を明治天皇に返上することを宣言します
当時明治天皇は16歳
慶喜は平和に政権交代を行い将軍職を退いたのち、近代的な新政権において、引き続き政治の実権を握ることを目的としていました
武力による討幕をもくろんでいた公家の岩倉具視や薩摩藩は、肩透かしをくらった形になります